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ポジティブな「諦める」!?顔デカ太郎流諦めの美学を解説する話

どーも、諦めが悪いことで有名な男……顔デカ太郎(@airinybsg)です。 

自分がそんな知名度ないことをわかっていない顔デカ太郎先生について

う、うるせえ……


身の回りの人でとりあえずなにかを話すと否定形、批判的にばかり話す人はいないだろうか。

かつての著者や今現在の相方もそうなのだが、否定形あるいは批判的に会話をする人の根幹を探っていくと「自分自身を認められない」人が多かったりする。

少なくともかつての著者や相方はこれに当てはまるぞ

しかしこの話し方は非常に他人を不愉快、というか話のコシを折りやすく会話のテンポが悪くなってしまい楽しさが失われてしまう。

なんでもかんでも「え〜でもさ〜」と言ってくる人と仲良く友達をできるかと言われれば、そんなことはないだろう。

そんな時に著者が提唱したい「自分自身を認める方法」として「諦め」を今回は解説しよう。

 

今回の情報弱者
「諦め」の使い道をわかってない情弱


「アキラメ」は決してネガティブな意味ではない

「諦める」というと真っ先に浮かぶのはネガティブなイメージだろう。大学進学を諦める、夢を諦める、諦めるという単語は何かの先(進路)を断ち切ってしまうというニュアンスが多く含まれる。

しかし著者はその諦めるということに対して、使い方を間違えなければこれほど「取捨選択」のために便利なものはないと考える。

諦めることで現状を打開できる

なんらかの事情で現状が停滞している時に「諦め」をするとそれを改善できる場合がある。

基本的に停滞する原因は「何かを認められなかったりあるいは認めたくない」という自分の意思がそこにあるからで、それさえ取り払って仕舞えば案外解決できることが多い。

どういうこと?

「ブロガーに俺はなる!」って言ってる割にマジで記事書かへん人とか……

あーなるほど、ほんまはやりたくないって認めたくないと……

しかしその「自分の意思」が非常に厄介極まりなくプライドであったりトラウマであったり、合理的に考えれば許容しようのない理由であってもその場においては「自分の意思」が非常に強い効力を発揮してしまう。

認めたくない、怖いなど自分の弱さから出ていているものが故にうまくそれと向き合えないのだ。


ただ現実としてそこにあるものをいかに否定しようが拒絶しようが、見ないようにしたとしても現実は一切変わらない。認識をいかに歪めようとも何も変わるものはなく、一層認識と現実の間に乖離が広がっていくだけだ。

そんな非合理的な自分の弱さに強権を発揮してもより縮こまるだけなので有効な手立てとして著者は「諦め」を提唱する。

諦めは自分が弱いのも認められないのも全てを諦める。そういう現実もあると認めることだ。

別に弱くたっていい

何か停滞していることがあるならそれはもしかしたら「自分の弱さを認められないから」かもしれない。

誰だって自分の弱さはできれば無い方が好ましいし、まさかそれを誰かに晒すことをそうやすやすとできはしない。自分は誰かの前で簡単に泣けるか問いただせば自分の弱さを他人に見せられるかがわかるだろう。

ただはっきり言って人間は「弱く無いわけがない」のだ

それを他人に見せれないのは仕方がないのかもしれないが、認めないのとはちょっと違う。局部の存在を服や下着で隠すけれども誰がその存在を認めないというのだ。

「弱さ」は必ず人間のどこかに存在し、それは自分自身が一番よくわかっているはずなのだ。そこにただ目を向けているのか、向けられていないのか、それとも「向けたくないのか」いずれにせよ弱さの場所を知らないはずなどない。


必ずどこかに存在するものなのにどうしてそれを認めることができないのだろう。

認められないのではなく認めたくないだけではないだろうか……

真偽は自分自身が一番よくわかっているはずだが、概ね多くの人は弱さを直視するだけで自分のメンタルにダメージを負いがちなので頑なに認めようとしない。

しかし確実に言えることは現実にそこに存在するものを直視しなかったとしても現実は変わらないし、利点など何もないのだ。弱さを見れないのであれば現実を見ればいい。

現実に良し悪しなどあるはずもなく、まずは弱点にネガティブな印象を持たせている自分の考えを直した方がいいかもしれない。


でも認めたくない人に「事実を見ろ」って言うのは残酷じゃね?

だが、事実から目を背けたからと言って楽になるわけじゃない

なぜ自分の弱さを直視しなければならないのか。それは「弱さ」がさまざまな苦痛の根源だからだ。それを直視して少しでも早く取り除かなければ「苦痛」がいつまでも続く。

苦痛をダラダラ続けることが本望なのであればそれでも良いが、そんな真のドMはおそらくそれを弱さとは思っていないだろう。

たしかにストレスがかかることだ、自分の弱さを直視することは。しかし仮にそれをしなくてもストレスはかかるのだ、ずっとこれからも常に。

終わりのない苦痛を味わうのか、ひとときに気絶しそうにはなるが大量のストレスを味わう代わりに金輪際その苦痛からおさらばできるのであれば、間違いなく後者を選ぶべきだ。

ストレスに潰されていたリソースを他のものに回すことができる

「かもしれない」で物事を決めることの愚かしさ

著者にはあまり理解できないのだが、自分のことを好きじゃない・自分のことを信用できない・自分を疑っている割に「かもしれない」が好きな人が多すぎると思うのだ。そしていつしか「かもしれない」が勝手に「ちがいない」に進化して確信に変わるのだ。

そもそも決断があまりに早急する人が多すぎる

というよりも自分の弱さも直視せず、嫌なことから逃げ続ける割には自分のどこから来ているかもわからない「恐怖心」には随分正直なのだなと感心するばかりだ。

その恐怖心を信用する根拠は一体なんなのだろう。

もし自分に自信がなかったり疑っているのであれば、その恐怖心すら信じられないはずではないのだろうか。なぜ恐怖心だけ信じられるのか。それが信じられるのならどうして他のことは信じられないのだろう。


都合のいいように解釈して逃げているから辻褄が合わなくなる。バカほど難しい言葉とそれっぽい理屈を好むが、本当に理屈っぽいのであれば全てに理にかなった行動ができるはずだ。

著者は考えることが日常なのでどうも思わない人間なのだが相方に言わせてみれば「考えること自体がストレス」らしい。

どうにも相方は著者が「嫌なことを含めて考えることがストレスでない人」のように勘違いしているかもしれないが著者だって自分の弱さを克服する時だったり嫌なことを考えるときは半端なくストレスがかかる。

ただそれでも考えるのをやめないのはそれが「考えなきゃどうしようもないから」であり、一刻も早くその「嫌なこと」から解き放たれたい、おさらばしたいのだ。

とにかく嫌なことからさっさとお別れしたい。その方法が「直視しない」ではなく「諦めて対策をねる」なのだ

諦める最も簡単な方法

諦めがつかない時に最も単純に諦める方法がある。

ため息をつくのだ

え、それだけ?

たったそれだけと思うかもしれないがへんな言い訳をつけるよりはよっぽどよい。とにかくへんな御託を並べないことが最も重要で、それが口から出てきそうになったらとりあえずため息をつけばいい。

言い訳や御託を並べることで「自分が正しい・間違っていないかのように錯覚する」かもしれないが、自分はどうしようもなく間違っているものなのだ。

その事実は絶対に変わらない。自分が絶対的に正しいと言えることは極めて少ない。であるならば正しさを追い求める必要はない。


そして間違っている自分を認めてあげよう

別に許す必要はない。殺人犯の罪を許す必要はなく、それが罪を犯したという事実をただ認めればいいそれだけだ。

例えは突飛かもしれないが「事実を認めるだけのこと」に一体どれほど難しいことがあるというのか。それを認められないのであれば相当な強情だ。

記事のまとめ

というわけで今回は「諦めの有効な使い道」について解説しました!まとめるとこうなります。

  • 物事が停滞するのは「事実を認められないから」だ!
  • 諦めなくとも苦痛は続く。自分が間違っていることを諦めて認めよう!
  • 諦めて事実を認めるための方法は「ため息をつく」ことだ!

結論:言い訳するな・頭を使うな・考えるべき場所はそこじゃない。


言い訳するなというと「昭和的」と思うかもしれないが、自己擁護のために発展の余地のない発言をするのはどう見繕っても「苦しい言い訳」としか言い表しようがない。

あれも嫌、これも嫌と言っていると結局それではなんの解決も出来ずその上でそれを開き直ることすらしないとなるともはや本当になんの価値もない。

言い訳をするために色々な難しい言葉を使うが、脳みそのリソースを割くべきなのはそこじゃない

所詮言い訳をするしかできない人の脳はそもそも大したことがない。だから難しい言葉をつかうだけムダだ。それよりももっと頭を使わずに素直になった方が楽に決まっているのに。


さっさと諦めて楽になれ。諦めたらそこで試合は終了するが、負け試合をズルズルやるよりは潔い。

無様な姿をいつまでも晒し続けてこれ以上自分に取り合えしようのないダメージを与えて一体何がしたいのだ。

現実を直視して、諦めろ。諦めるとその瞬間に現実を認められる

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