どーも、実は一番手こずった入試科目は世界史だった男……顔デカ太郎(airinybsg)です。
もくじ
1.先史
現代型ホモ・サピエンスの誕生
まずは今の人類よりもさらに昔の人類たちの歴史、それが先史だ。先史には「猿人」「旧人」「新人」とが存在する。新人以降の人類が現代型ホモ・サピエンスとされている。
最も古い人骨は約700万年前に遡るサヘラントロプスでアウストラロピテクスなどと合わせて「猿人」と言われている。
彼らの特徴は旧石器時代に属し、使ってきた武器などが打製石器であったことだろう。極めてシンプルな構造だ。これは新石器時代に入るまで長く用いられていた。
「火」を使うようになった原人
次に約240万年前に「原人」が出現し彼らの特徴は「火」を用いて生活をしたことだ。
ラスコー壁画を残したクロマニヨン人
つづいて約60万年前にネアンデルタール人に代表される旧人が現れ、彼らは死体を埋葬する習慣が出ていた。
その後20万年前にクロマニヨン人などの新人が現れた。彼らはフランス西南部現在のドルドーニュ県のべゼール渓谷にあるラスコー洞窟に洞窟壁画を残している。これは現存している最古の絵画だ。
ネアンデルタール人やクロマニヨン人などは広く分布していたが主にヨーロッパから中央アジアまでが勢力範囲だったとされている。
ようやく「自分たちで食品を栽培する」ように
そして約9000年前に農耕(畑作)や家畜を飼う(牧畜)などの文化が始まり磨製石器や土器なども使われるようになった。
農耕や牧畜が可能になった背景は肥沃な三日月地帯が大きく影響している。
これはペルシア湾からティグリス・ユーフラテス川に沿ってパレスチナ・シリア・エジプトへ至る三日月型の地形の地域をさし、ナイルの賜物などもこれらの地域でおこったことだ。先史の時代が終わるとこの肥沃な三日月地帯を中心に人類の文化が発展していく。
2.メソポタミア
川と川の間で栄えた古代メソポタミア文明
ティグリス川とユーフラテス川の流域にはメソポタミアがある。この地域は現在のイラクの一部でこの2つの河川はペルシャ湾から流れている。
地理的にはメソポタミアの北部がアッシリア、南部がバビロニアになっていてさらにバビロニアの北部がアッカド、河川の下流域にあるバビロニア南部がシュメールとなっている。
この地域では複数の文明が生まれそれらは「古代メソポタミア文明」と呼ばれている。
紀元前2700年ごろまでに民族系統が不明なシュメール人によって多数の都市国家が建設された。これらは「ウル」あるいはウルクと呼ばれている。その語はセム語系の民族が活躍する。
セム語系のアッカド人は前述のシュメール人たちの都市国家(ウル)を征服して周り、紀元前2400年からのサルゴン1世がメソポタミアを統一した。
有名なハンブ(ム)ラビ法典もここで制定
同じくセム語系のアムル人が建設したバビロン第一王朝は紀元前1800年からのハンブ(ム)ラビ王の時代に全メソポタミアを統一してハンブ(ム)ラビ法典を制定した。
ハンブ(ム)ラビ法典は目には目をの復讐方で有名。
この頃は太陰暦が用いられ、週7日制だった
続いてインド=ヨーロッパ語系の民族が侵入してきた。このインド=ヨーロッパ語系のヒッタイト人は「鉄製武器」を用いてバビロン第1王朝を滅ぼした。
その後メソポタミア南部(バビロニア)をカッシート人が支配し、北部(アッシリアからシリアにかけて)にてミタンニ王国が建設された。
メソポタミアでは粘土板に記録されていた楔形文字をイングランド人のヘンリー・ローリンソン準男爵によって解読された。またメソポタミアでは天文学の知識を元に太陰暦が用いられて1週間が7日制だった。
3.エジプト
エジプト文明は3つの時代に別れる
ナイル川流域にはエジプト文明が栄えた。紀元前3000年頃にエジプトはファラオという王を中心に統一国家ができた。
エジプト文明は3つの時代に分けることができる。それぞれを古王国、中王国、新王国とよばれそれぞれ栄えた場所がナイル川流域ではあるものの時代が進むにつれて下流から上流へと変化するのが特徴。
古王国の都は下流のメンフィスに置かれ、ギザなどに多数のピラミッドが建設された。これらは現代でも多く見られるが現存しているのは造営されたもののうちかなり少数である。
時代の流れの中で「一神教」になる
中王国の都は中流のテーベに置かれた。末期頃にシリア方面から遊牧民のヒクソスが流入した。その後ヒクソスによってエジプト文明は支配されるがヒクソスが支配していた地域はかなり地中海寄りのデルタ地帯であったため、結局はテーベに残った政権が駆逐に乗り出した。
セケンエンラー、カーメス、イアフメス1世と王が3代変わったが駆逐に成功しエジプトを再統一した。その後の時代を新王国と呼ぶ。
新王国において有名な王はアメンホテプ4世だろう。彼はアトン(アテン)への信仰を強制して都もテーベからテル=エル=アマルナ(アケトアテン:アテン神の地平線の意味)に遷都させた。
アマルナ芸術も信仰の変更が関わっている。そもそもエジプトではアトンよりもアメンを信仰する方がメジャーだった。
そんな中王位についたアメンホテプ4世はファラオ(王)をも凌ぐ勢いだった当時の信仰を抑制して王権を強化するためにこれまでのエジプトで行われていた「多神教(複数の神を同時に信仰する)」から「一神教(神は1つ)」へと改めた。
自らの名前もアクエンアテンと改名した。ファラオの名前にはこれまでアメンの名前が含まれることが多かった。ちなみに唯一神アトンを信仰するこれらは世界初の一神教である。
太陽を信仰してるから太陽暦
そもそも多神教である古代エジプト文明では霊魂の不滅と再生(日本風にいうと転生に近い)を信じていて遺体をミイラにして死の書を埋葬した。
エジプトでは3種類の文字が使用されていた。碑文や墓に刻まれた神聖文字と公文書に利用される神官文字、パピルス(植物性の紙のようなもの)に記録された民用文字だ。神聖文字はロゼッタストーンを使ってフランスのシャンポリオンによって解明された。
エジプトの測地術はきわめて高度でギリシアの幾何学に影響を与えた。またエジプトでは太陽暦が利用されており、ローマに伝わったのちユリウス暦と呼ばれた。
しかしラメス2世がシリア方面に進出してヒッタイト人の王国と戦争をしたりして、その後どこからともなく現れた未だ不明点が多い通称「海の民」によって攻撃され古代エジプト文明は衰退した。
記事のまとめ
というわけで今回は「世界史解説① 〜古代オリエント〜」を書きました!まとめるとこうなります。
- 約9000年前から、人類は食品を栽培するようになる!
- 古代メソポタミア文明では農耕に適した太陰暦を使った!
- エジプト文明では太陽を信仰しており、太陽暦を使った!
結論:オリエントは地図といっしょに覚えよう。
オリエントにおいて重要なのは地中海南岸を中心に発展した文化であること。その上でこれらの地理的関係性を理解することでヒッタイト人がバビロン第一王朝を滅ぼしたなどを無理に暗記しなくても記憶定着をできる。
基本的にいつの時代も「隣の国から征服していく」のがスタンダードだ。
世界史においては暗記はもちろん必要なのだが時系列に沿ってストーリー仕立てで理解すると非常に覚えやすい。結局これをやったのは全て人間なのだから思惑だったり失敗だったりがいたるところにあるのでそれらを把握すると面白い。
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